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仙台高等裁判所 平成4年(う)143号 判決 1994年7月21日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人齋藤拓生が提出した控訴趣意書、同齋藤拓生及び弁護人阿部泰雄が連名で提出した控訴趣意補充書並びに控訴趣意補充書(その二)に、これに対する答弁は、検察官荒木紀男が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一(訴訟手続の法令違反の主張)について

論旨は要するに、原判決が有罪認定の証拠とした被告人の尿についての鑑定書は、任意同行の緊急性、必要性がなく、逮捕の要件も存在しないのに、被告人を強制的に警察署に連行し、被告人が弁護士名を特定してその弁護士への連絡方を要求したのにこれを無視し、退去しようとする被告人を再三にわたり実力で阻止するなど、令状主義もしくは弁護人依頼権に関する諸規定を潜脱して被告人を長時間警察署に留め置いた上、こうした違法な身柄拘束を利用して採取された被告人の尿を鑑定したものであって、右鑑定書は違法収集証拠として排除されるべきであるのみならず、右尿の採取を担当した捜査官は、広口ビーカーに被告人の尿を採取後これを鑑定嘱託用の二五〇ミリリットル容器に移し換える作業を被告人の面前で行わず、しかもその容器を被告人に封印させていないなど、本件鑑定の対象物件と被告人から採取した尿との同一性を保障する措置は全く講じられておらず、本件鑑定書と本件公訴事実との関連性は否定されるべきであるから、これを有罪認定の証拠とした原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があるというのである。

そこで記録を調査して検討すると、原判決が挙示する関係各証拠によれば、被告人から本件の尿を採取するまでの経緯は概ね原判決が争点に対する判断の項に認定説示するとおりであるが、所論に鑑み付言すると、原判決挙示にかかる関係各証拠及び当審における事実取調べの結果によれば、本件の尿を採取するまでの経緯として、次の事実を認めることができる。

(任意同行の状況について)

被告人は、平成三年九月二六日ころから内妻甲田春子(以下「甲田」という。)を福島県双葉郡浪江町に残したまま、新潟県柏崎市所在の株式会社共栄工業の作業員として、東京電力柏崎原子力発電所建設工事現場で働いていたが、留守中に甲田が外泊しているとして同女に不信感を抱き、同年一〇月四日早朝浪江町に戻り、同日午前一〇時ころ同女を稼働先のパチンコ店から呼び戻した上、当時被告人が賃借していた浪江町所在のアパート○○荘において、同女の髪を掴むなどの暴力を振るい、戸外に逃げ出した同女を追い廻したりした。同日午前一〇時五〇分ころ、右アパートの近隣者から浪江警察署に対し、男女が喧嘩しているとの通報があり、直ちに同署勤務のA、Bの両巡査が警ら用無線自動車で同アパートに赴いたところ、同アパートの駐車場にいた甲田の髪や衣服が乱れており、かすり傷も認められたことから、同女に事情を質したところ、被告人と夫婦喧嘩をしていたということであった。右警察官らは、同アパート内にいる被告人からも事情を聴取すべく被告人の承諾のもとに同アパート内の被告人の居室に入り、被告人に事情を質したが、被告人は、内妻に男がいるので、その男について尋ねようとすると、内妻が部屋に入らずに逃げて行ってしまっただけのことで、警察沙汰にする程のことではない旨説明した。右警察官らは、被告人の顔が青白く頬がこけるなど覚せい剤常用者の特徴が現れているように感じて被告人が覚せい剤を使用しているのではないかとの疑いを抱き、被告人及び甲田から事情を聴取すべく、両名に対し、甲田が受傷しているので詳しく事情を聴く必要があるとして、浪江警察署への任意同行を求めたが、被告人はこれを拒否した。右警察官らは、浪江警察署に応援を要請し、間もなく駆けつけた同署防犯係長C警部補、D巡査ら四名の警察官が任意同行に応じるよう被告人及び甲田を説得したところ、甲田はこれに応じ、同日午前一一時過ぎころD巡査に伴われて浪江警察署に赴いた。同署において、甲田は被告人の右暴行事件につき約一〇分間事情聴取を受けた後、被告人及び甲田自身の覚せい剤使用の有無や被告人の覚せい剤密売組織への関わりの有無について事情聴取を受け、同日正午ころ、D巡査らの求めにより、自己の尿約一三〇ミリリットルを任意提出した。予備試験の結果、甲田の尿に覚せい剤の反応は認められず、また甲田の供述によっては、被告人及び甲田が覚せい剤を使用したことや被告人の覚せい剤密売組織への関わりを裏付けることはできなかった。なお、甲田が任意提出した尿は、予備試験に使用した分を除く残量を鑑定嘱託用の二五〇ミリリットル容器に移し換え、甲田にその容器を封印させた上、同日、後記の被告人から採取した尿とともに福島県警察本部長に対し鑑定嘱託されたが、鑑定の結果、甲田の尿に覚せい剤成分の含有は認められなかった。一方、被告人は、C警部補らから任意同行に応じるよう説得されたが、些細な夫婦喧嘩に過ぎず警察に行って話す必要はないとしてこれを拒否した。C警部補は、A巡査らと同様に、被告人の顔つきに覚せい剤常用者の特徴が現れているように感じ、しかも覚せい剤事犯の前科が二犯あり、福島県原町警察署で検挙した覚せい剤事犯の被疑者乙山良男にかかる捜査資料の中に、覚せい剤の密売組織の関係者として被告人の名前も挙げられているとの情報も入手していた上、甲田に対する粗暴な言動にも覚せい剤使用の影響が現れていると見る余地があると思われたことから、この機会に被告人から覚せい剤事犯との関わりについても事情を聴く必要があると判断し、被告人を浪江署に同行すべく説得を続けた。被告人は、約一年前に自己の自動車運転免許証の更新のため浪江警察署を訪れた際に同署防犯係の警察官に尿の提出を求められたことがあったことから、警察官らが任意同行を求める真の目的は採尿もしくは覚せい剤事犯に関する事情聴取にあることを察知して任意同行を拒否することを決意し、前記アパートの駐車場に停めてあった自己所有の自動車に乗り込もうとしたが、警察官らにこれを制止された。被告人は直ちに右アパートの自室に戻り、友人である丙川一三(以下「丙川」という。)に電話をかけ、同人の車に乗せて貰いたい旨依頼し、まもなく乗用自動車(トヨタハイラックス)で駆けつけた丙川の車に乗り込もうとしたが、またも警察官らに制止された。その後も右警察官らは任意同行に応じるよう被告人を説得し、被告人はこれを拒むという状況が続き、同日午後零時五分ころ捜査用自動車で臨場した浪江警察署員のE巡査部長及びF巡査も加わり、更に被告人を説得したが、被告人はこれに応ぜず、丙川も、甲田が怪我をしている訳でもないのに警察に行く必要があるのかなどと被告人を擁護する言動に出たため、事態は進展しなかったのであるが、同日午後零時二〇分ころに至り、数人の警察官が被告人の身体を持ち上げるようにして捜査用自動車まで連行しようとした。被告人は、丙川の車両のバンパーに掴まり、あるいは丙川の身体に縋りつくなどして抵抗したが、警察官らに引き離された。丙川は警察官に対し、無理に被告人を連れて行くことはないのではないかと質したが、これに対し警察官は、話が分かれば帰す旨述べた。被告人は、丙川と話をさせて貰いたいと申し出て身体の拘束状態を解いて貰った上、対応策について丙川の意見を求め、丙川において、甲田との夫婦喧嘩の件を話して来てはどうかなどと意見を述べるうち、数名の警察官が再び被告人の腕などを掴んで丙川から引き離し、そのまま被告人を前記捜査用自動車の後部座席右側に押し込んだ上、E巡査部長が被告人の左側座席に乗り込み、F巡査が同車を運転して浪江警察署に向かい、同日午後零時二五分ころ同署に到着した。

(警察署における留め置きの状況について)

浪江警察署に到着後、被告人は「仕方がない。」などといいながら、E巡査部長らに伴われて同署二階の取調室に赴き、同室で同巡査部長やF巡査の取調べを受けた。被告人の取調べには、その後C警部補も加わった。被告人の取調べは、初めに甲田に対する暴行事件につき簡単な事情聴取が行われ、その後は専ら覚せい剤事犯への関わりの有無に向けられた。C警部補らは被告人に対し、覚せい剤を使用しているか否かは腕を見れば分かるとして腕を見せるよう促し、被告人の腕部を見分したが、その右腕の肘部内側に顕著な注射痕が認められたことから、被告人が覚せい剤を使用しているとの疑いを強め、同日午後一時一〇分ころE巡査部長が被告人の注射痕を撮影し、同日付で写真撮影報告書を作成するとともに、C警部補らにおいて被告人に対し、尿を提出するよう繰り返し求めたが、被告人はこれに応じなかった。C警部補は、被告人から尿の任意提出を受けることは困難であると判断し、D巡査らを補助者として、同日午後二時ころから二時間余りにわたり、強制採尿のための捜索差押許可状の請求書及びこれに添付すべき捜査報告書その他の証拠資料の作成や、強制採尿を依頼すべき医師の手配などの作業に従事し、上司である同署次長・司法警察員G警部を請求者とする捜索差押許可状請求書と、これに添付すべき一件記録(E巡査部長が作成した前記写真撮影報告書も同記録に含まれていたと考えられる。)を作成した上、同日午後四時三〇分ころD巡査がこれらの書類を携えて同署から約二〇キロメートルの距離にある福島富岡簡易裁判所に向かい、同日午後五時五分ころ同裁判所裁判官に強制採尿のための捜索差押許可状の発付方を請求し、同裁判所裁判官から捜索差押許可状の発付を得た上、同日午後六時ころ同署に戻った。その間、取調室において、B、F両巡査らが引き続き被告人に対し尿の提出方を求め、被告人が尿意を訴えるや、D巡査らが採尿容器を携帯して同署一階の男子トイレに同行したが被告人は採尿を拒否してトイレでは排尿せず、隙を見て同トイレの向かい側にある防犯室の窓から逃げようとしたが、同室内にいたE巡査部長に取り押さえられ二階取調室に連れ戻された。その後被告人は、取調室内で再三にわたり着衣に尿を洩らし、あるいは同室の窓から排尿しようとして捜査官に制止されたりしたほか、「出してくれ。」などと大声で喚き、あるいは捜査官らの取調べを拒否して退去しようとしたが、その都度警察官らに取り押さえられ、押し戻されるなどしたため、結局退去するに至らなかった。

(弁護人選任の申し出について)

浪江警察署における事情聴取の過程で、被告人は同署の警察官に対し、福島県原町市の太田雅利弁護士に連絡して貰いたい旨申し出たが、その申し出を受けた警察官は同弁護士に対する連絡を行わなかった。なお、被告人から右の弁護人選任に関する申し出がなされたことは、D巡査を通じてC警部補に報告されたが、同警部補も、これにつき格別の措置を講ぜず、結局、同署員らから太田弁護士に対する連絡はなされないままに終わった。(この点について、原判決は被告人の供述を信用できないとして、弁護人選任権侵害の主張を排斥しているが、当審における被告人質問の結果をも加えると、この点についての被告人の供述はかなり具体的であり、C警部補も原審証人として、D巡査から右のような報告を受けたことは認めているのであるから、右被告人の供述を一概に排斥することは相当でない。)

(採尿状況について)

D巡査が捜索差押許可状を携えて浪江警察署に戻った後、C警部補らは、先に強制採尿を依頼してあったR医師に来署を求め、被告人に右許可状を示した上、午後六時二三分ころ、同署二階の武道場兼会議室において、R医師の立会いのもとに強制採尿を実施しようとしたが、被告人は器具による強制採尿を嫌い、D巡査が差し出した広口ビーカー内に約二〇〇ミリリットルを排尿してこれを提出した。D巡査は、右広口ビーカーを携えて被告人とともに取調室に戻った上、被告人の面前で広口ビーカーに採取した被告人の尿を鑑定嘱託用の二五〇ミリリットル容器に移し換える作業を行ったが、C警部補以下の同署の担当者らは、右の採尿手続の法的性質を誤解して、それが強制採尿手続に当たると考えた結果、その容器を被告人に封印させる措置を講じなかった。同日午後六時五〇分ころ、同署鑑識係のH巡査部長らが、改めてR医師のもとに赴き、同医師からその容器に封印して貰った上、同日午後八時ころ、福島県警察本部長に対し右尿中の覚せい剤含有の有無の鑑定を嘱託した。右鑑定対象物件は、即日同本部刑事部鑑識課科学捜査研究室の鑑定に付され、同研究室の技術吏員Jがその鑑定を実施した結果、右尿中から覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンが検出された。右の鑑定結果は、同日午後九時四四分ころ県警本部から浪江警察署に電話で報告され、同日午後一〇時同署において、C警部補が被告人を覚せい剤使用の被疑事実により緊急逮捕した。

以上のように認められる。

検察官は、本件任意同行は、これに関与した各警察官が原審公判廷において一致して供述するとおり、被告人が警察官らの再三にわたる説得と丙川の助言により、自らの意思で捜査用の自動車に乗り込み浪江警察署に赴いたものと認められるのであって、これに反する被告人及び丙川の原審もしくは当審各公判廷における供述(殊に、数名の警察官が、丙川に縋り付いて抵抗する被告人を担ぎ上げて無理に捜査用自動車に押し込み警察署に連行したとの供述部分や、その際警察官らは丙川の身体を車両に激突させて車体に損傷を生じさせたとの供述部分)は、被告人において、車体に衝突した丙川の身体の部位につき、当初は腰部であると供述しながら、車体の損傷部位と丙川の腰部の高さが一致しないことが明らかとなるや、衝突部位を肘部に変え、被告人を車両に押し込んだ状況につき詳細を説明出来ないなど、その供述自体に矛盾や曖昧な点がある上、被告人が丙川に説得されて任意に捜査用自動車に乗り込んだ旨の丙川の司法警察員に対する供述、身体の衝突によっては丙川が述べるような車体の損傷は生じないとする当審証人Kの証言、右K証言に沿う当裁判所の車両の検証結果等に照らし、到底信用できない旨主張する。

被告人及び丙川の原審もしくは当審各公判廷における供述のうち、警察官が被告人を丙川から引き離す時に丙川の身体が車両に激突してその車体に損傷を生じたとの部分については、検察官の主張する点と概ね同様の理由により、当裁判所も措信し難いと考えるのであるが、前記認定のとおり、本件当日、被告人は、午前一一時前ころから約一時間にわたり現場に駆けつけた六名の警察官(但し、右六名のうち、D巡査は甲田を署に同行するため、C警部補は上司と対応策を協議するべく公衆電話の設置場所に赴いたため、いずれも途中で現場を離れている。)から繰り返し同行を求められながらこれを拒否し続けていたのであって、その拒否の態度は極めて強固であったこと、被告人が、警察官らに同行を迫られる過程で丙川を電話で呼び寄せた事実は関係者らの一致した供述により明らかであり、被告人が丙川の車に同乗してその場を離れる意図で同人を呼び寄せたことについても、当時の状況に照らし疑いのないところであるが、これらの事情に鑑みると、被告人の公判供述中、自車で現場を離れようとしたが警察官に制止されたため丙川を電話で呼んだとの部分、丙川の到着後同人の車に乗り込もうとしたが警察官らに制止されたとの部分は、いずれも当時の客観的状況に符合し信用し得るものというべきであること、当日被告人は、E巡査部長及びF巡査が現場に到着後一五分程度経過した時点で、右両警察官と共に捜査用自動車で浪江警察署に向かっているのであるが、同行を求める真の目的が採尿もしくは覚せい剤事犯に関する事情聴取にあることを察知して断固これを拒否していた被告人が、E巡査部長らの到着後、同人らに説得され、あるいは丙川から夫婦喧嘩の件を話して来るよう勧められた程度で、突如任意同行に応じる気になったとは考え難く、それまで、警察に行く必要があるのかなどといって被告人を擁護していた丙川が、単に警察官から「話が分かれば帰す。」という程度の説明を受けただけで、にわかに任意同行を応諾するよう被告人に勧める気になったというのも不可解であって、むしろ、右のような被告人及び丙川の警察官に対する態度の変化は、その時点で警察官らが被告人に対し何らかの強制を加えたことを示すものと見るのが自然であること、浪江警察署に到着後、被告人は、取調べ中「外に出してくれ。」などと大声で喚き、警察官らの取調べを拒否して退去しようとし、隙を見て防犯室の窓から逃げようとし、取調室で再三にわたり着衣に尿を洩らし、同室の窓から排尿しようとし、いずれも警察官に制止されていることに照らし、本件時における被告人の任意同行拒否の態度は浪江警察署に到着する前後を通じて一貫していたと認め得ること等の諸事情を併せ考慮すると、被告人が警察官らの説得に応じ、自らの意思で捜査用自動車に乗り込み浪江警察署に赴いたとする警察官らの供述は、いずれもにわかに措信し難く、却って、捜査用自動車でE巡査部長ら二人の警察官が現場に到着後間もなく、数人の警察官が被告人の身体を持ち上げて被告人を連行しようとし、その際被告人が丙川と話をしたいと申し出たため一旦は被告人を開放したものの、被告人が丙川と相談中、再び被告人の腕を掴むなどして前記捜査用自動車に押し込んだ旨の被告人及び丙川の供述部分は、信用するに足りるものというべきである。

右認定の事実に基づき、まず任意同行の当否について検討すると、本件任意同行は、延べ八名の警察官が一時間余りもの間被告人と押し問答を繰り返した末、被告人の同行拒否の態度が明確であったにもかかわらず、数名の警察官が被告人の腕を掴むなどして捜査用自動車に押し込み、浪江警察署に連行したというものであり、右の同行が警察官職務執行法二条三項、刑事訴訟法一九八条一項但書に定める職務質問、任意同行の許容限度を著しく超えるものであったことは明らかである上、同行の理由とされた被告人の甲田に対する暴行事件は、もともと内縁の夫婦間のトラブルに過ぎず、それにより甲田はかすり傷を負った程度であり、しかも同女には捜査当局に被害の申告をする意思はなく、処罰に値する事案とは認め難いものであって、被告人も甲田に暴力を振るった事実を格別争う態度に出てはいなかったのであり、その後捜査当局は右暴行事件について被告人や甲田から簡単な事情聴取を行っただけで捜査を打ち切っていることに照らし、当時、右暴行事件に基づき被告人を逮捕する必要性があったと見ることは困難である。もっとも、当時浪江警察署の警察官らは、被告人には覚せい剤事犯の前科があることや、被告人が覚せい剤の密売に関与しているとの情報を入手(なお、この情報に関する捜査がその後進展したことを窺わせる資料は記録上見当たらないことに照らし、もともと右情報は確たるものではなかったと考えられる。)していたほか、被告人の顔つきに覚せい剤の常用者の特徴が現れているように感じ、甲田に対する粗暴な言動も覚せい剤使用の影響と見る余地があったというのであるが、右の程度の情況証拠に基づいて被告人を覚せい剤自己使用の被疑者として逮捕することができないことはいうまでもなく、実質的に見ても、当時被告人を逮捕する要件は存在しなかったというべきであるから、右の任意同行は事実上の逮捕行為に比すべきものとして、違法といわざるを得ない。

次に、浪江警察署に被告人を留め置いたことの当否について検討すると、当日、被告人は午後零時二五分ころ、浪江警察署に到着し、その後同日午後六時過ぎころ強制採尿のための捜索差押許可状が被告人に示されるまでの約六時間にわたり、警察官の監視の下に、主として覚せい剤事犯との関わりについて取調べを受け、同日午後六時二三分ころ被告人から任意に尿が提出された後も、午後一〇時に覚せい剤取締法違反の被疑事実により緊急逮捕されるまで同署に留め置かれているのであって、その留め置きは通じて約九時間三〇分に及んでいる。その間、被告人は「出してくれ。」などと大声で喚き、隙を見て防犯室の窓から逃げようとし、あるいは捜査官らの取調べを拒否して退去しようとしたが、その都度警察官らに取り押さえられ押し戻されるなどしたため退去できなかったのであって、こうした被告人の言動に照らし、本件の留め置きが被告人の承諾に基づかないものであったことは明らかである。浪江警察署に連行された後、被告人の右肘の内側に顕著な注射痕のあることが確認されたとはいえ、右注射痕のほかには、被告人はもとより、甲田からも被告人の覚せい剤事犯との関わりを裏付ける供述は得られなかったのであるから、被告人の尿の鑑定結果が明らかになるまでは被告人を覚せい剤事犯の被疑者として逮捕するに足りる証拠は依然として存在しなかったというべきである。強制採尿の令状が発付された後、その令状を執行するまでに要する相当の時間被疑者を強制的に連行し、あるいはこれを留め置くことが令状執行に必然的に伴う強制として許されるとしても、本件において右の理由で是認され得るのは、午後五時以降の留め置き部分のみであって、それ以前の約五時間に及ぶ留め置きは、刑事訴訟法一九七条、一九八条等によって許容される任意捜査の限度を著しく超え、令状に基づかない事実上の逮捕に比すべきものとして、違法といわなければならない。

次に、採尿手続の当否について検討すると、被告人は、浪江警察署に連行された後、排尿のため男子トイレに赴いた際に同行した警察官から容器に排尿するよう要求されたため排尿を諦め、その後取調室内で再三にわたり着衣に尿を洩らし、あるいは同室の窓から排尿しようとして警察官に制止されていたところ、同日午後六時過ぎころ強制採尿のための捜索差押許可状が被告人に示され、午後六時二三分ころ同署二階の武道場兼会議室においてR医師の立会いのもとに強制採尿を実施しようとした際に、被告人は器具による強制採尿を避けて警察官が差し出した容器に排尿してこれを提出したというのであって、これによれば、もともと被告人には任意に尿を提出する意思はなかったのであるが、強制採尿令状を示されるに至り、器具による採尿を回避するため、やむを得ず警察官が準備した容器に排尿したものであることが明らかである。右のとおり、本件においては、尿の採取は違法な連行、留め置きの上にはじめて可能となったものというべきであることに加えて、採尿令状の請求手続が、違法な連行、留め置きを利用して作成された注射痕の写真撮影報告書などを証拠資料としてなされたものであることを考慮すると、本件採尿手続には、違法な連行、留め置きを利用してなされたという点で瑕疵があるといわざるを得ない。

なお、所論は、右尿の採取を担当した捜査官は、広口ビーカーに被告人の尿を採取後これを鑑定嘱託用の二五〇ミリリットル容器に移し換える作業を被告人の面前で行わず、しかもその容器を被告人に封印させていないなど、本件鑑定の対象物件と被告人から採取した尿との同一性を保障する措置は全く講じていないのであるから、本件鑑定書と本件公訴事実との関連性は否定されるべきであると主張するので検討すると、本件尿の採取を担当した捜査官が広口ビーカーに被告人の尿を採取後、これを鑑定嘱託用の二五〇ミリリットル容器に移し換える作業は被告人の面前で行ったことは前記認定のとおりであり、本件の捜査を担当した関係者の供述によれば、本件当日、同署には甲田と被告人から提出された尿の外には領置中の尿はなかったというのであり、記録上これに反する証拠はない上、甲田が提出した尿については甲田自身が封印し、被告人の尿については領置後間もなくR医師が封印しており、その後これらの尿の鑑定手続の過程で両者が取り違えられた形跡はなく、本件鑑定書は被告人が提出した尿に関するものと認められるから、本件鑑定書と本件公訴事実との関連性は否定されないというべきである。もっとも、その容器に被告人の面前でただちに封印を施さなかったことは所論の指摘するとおりであり、それが採尿手続として適切さを欠くものであることは否定し難く、この点は遺憾といわなければならない。

次に、被告人の弁護人選任の申出に対する警察官の対応について検討すると、被告人は、浪江警察署における事情聴取の過程で、同署の警察官に対し、弁護士を特定してその弁護士に連絡して貰いたいと申し出たのに、結局、同署員らからその弁護士に対する連絡はなされなかったというのである。当時被告人は警察官らに制止されて警察署を退去することができないまま、九時間余にわたり、事実上の逮捕状態に置かれていたことは既に見たとおりであるが、逮捕中の被疑者は監獄の長またはその代理者に弁護士を指定して弁護人の選任を申し出ることができ、その申し出を受けた監獄の長または代理者は、直ちに被疑者が指定した弁護士にその旨通知しなければならないものとされている(刑訴法二〇九条、七八条)のであるから、被告人の右申出をただちに選任の申出と見るかどうかはともかく、これに対する浪江警察署の前記のような対応は、極めて問題であり、弁護人選任権に対する配慮を欠き、その行使を阻害するものといわざるを得ない。逮捕後(すなわち、採尿が実施され、鑑定結果も出た後)の弁解録取の際の被告人の供述が、「弁護人についてはあとで考える」というものであったとしても、右の結論に変わりはない。

以上のとおり、本件の任意同行とこれに引き続く浪江警察署における留め置きないし取調べには、これを拒否する態度が明確かつ強固であった被告人に対し、令状に基づかないで身柄を拘束した違法があるほか、拘禁中の者に保障された弁護人依頼権の行使を阻害した違法があり、本件尿の採取はこうした違法な身柄拘束等を利用して行われたものと見ざるを得ない上、被告人から提出を受けた尿の領置手続にも適切さを欠く点があるところ、これらの諸事情を総合考慮すると、本件鑑定資料の採取手続には、令状主義を没却する違法があるというべきであり、その違法の程度はまことに重大なものといわざるを得ない。そして、こうした違法な手続を経て作成された本件鑑定書の証拠能力を肯認することは、右の重大な違法行為を追認するに等しく、許されないものというべきである。

そうすると、原判決の説示中、本件任意同行及び浪江警察署における被告人の留め置きが任意同行ないし任意捜査として許容される限度を超えた違法な身柄拘束であり、これに引き続いて行われた採尿手続も違法性を帯びると評価せざるを得ないとする部分は正当であるが、その違法の程度は未だ令状主義の精神を没却するような重大なものとはいえないとして本件鑑定書の証拠能力を肯定した部分は誤りといわざるを得ず、この点において、原判決には訴訟手続の法令違反があることが明らかである。

そこで、右の訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすか否かについて検討すると、右鑑定書を除くその余の証拠として、被告人の右腕肘部内側の注射痕に関する写真撮影報告書があるところ、被告人は右の注射痕は稼働先で実施した健康診断の際の採血痕であると弁解するが、関係証拠によれば、本件の約一週間前である平成三年九月二六日、被告人は株式会社Tが実施した新規採用者に対する一般健康診断と電離検診として柏崎市内のO医院で健康診断を受け、その際同医院の看護婦から肘部内側の血管に注射針を刺して採血されているものの、一般に専門に医療に従事する者が実施した採血による注射針の刺入痕は二日程度で消失するとされていることに照らし、被告人の右弁解はにわかに信用し難いのであるが、さりとて右写真撮影報告書のみによっては本件公訴事実を認めるに到底十分とはいえず、本件記録を精査しても、他に本件公訴事実を認めるに足りる証拠はないから、結局、右訴訟手続の法令違反は、判決に影響を及ぼすことが明らかである。

そうすると、本件控訴趣意第二(事実誤認の主張)の論旨につき判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に判決する。

前記のとおり、本件公訴事実については犯罪の証明がないから、同法三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 藤井登葵夫 裁判官 田口祐三 裁判官 富塚圭介)

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